Language
English Japanese

with Bartender

Exploring the journeys and the thoughts that shape globally active bartenders behind the bar.

2026.10.22

上野秀嗣

「BAR HIGH FIVE」オーナーバーテンダー/一般社団法人 日本バーテンダー協会会長/一般財団法人 カクテル文化振興会評議員

「BAR HIGH FIVE」にて上野秀嗣さん

カクテル作りには終わりというものがない

卓越したバーテンディングの技術、親しみある接客などが高く評価され、国内外で数々の表彰を受ける「BAR HIGH FIVE」の上野秀嗣(うえの ひでつぐ)さん。彼の美しい所作は、バーをよく知るお客様はもちろん、同業のバーテンダーからもお手本として常に注目の的です。「STAR BAR GINZA」創業者の岸久(きし ひさし)さんとの出会い、バーやバーテンダーのあるべき姿など、日頃の上野さんのお考えを語っていただきました。

文:鈴木昭 / 写真:三井公一 / 構成:Contentsbrain
取材場所:「BAR HIGH FIVE」(東京都中央区銀座5-4-15 エフローレギンザ5ビル地階)


将来の夢は喫茶店のオヤジになることだった

――上野さんがバーテンダーになられるまでの経緯を教えてください。

私は高校時代、喫茶店の親父になりたいと考えていました。コーヒーも好きでしたし、自分の好きな音楽と好きな雰囲気の空間に囲まれて、好きな人が集まる空間を思い描いていました。

高校を卒業する頃、日本はバブル絶頂期で土地代も高騰していました。喫茶店の面接で将来お店を持ちたいと言うと、実家が喫茶店なのかと聞かれるわけです。違いますと答えると、じゃあやめておけと。裕福じゃなければ無理だ。喫茶店1軒やるのに億の金がかかるぞと。しかし、17、18歳の若者にそんなこと言っても、聞くわけがなくて。卒業後、札幌市内で雇ってくれた喫茶店で2年ぐらい働いていました。

「BAR HIGH FIVE」オーナーバーテンダー上野秀嗣さん

高校生まで部活は野球部に所属し、とても規律の厳しい環境の毎日でしたが、働き始めてからはある程度のお金が入るようになり、夜はバイクで走り回り、家に帰らず、生活が急激に乱れていきました。ある時、このままじゃまずいな、規律の厳しい生活に戻りたいなと考え直しました。喫茶店をやりたい想いは変わらず、経営を学ぼうと思い、東京の大学の経営学部を片っ端から受験して、受かった大学に行きました

――大学時代にはアメリカに留学されたのですよね。

2年生の時に大学の交換留学制度を利用して半年間留学しました。ワシントン州にある姉妹校です。この留学は後の人生に非常に助けになったのですが、当時は目の前にたまたまそういう機会があり、単位ももらえ4年で卒業できるし、何事も経験だと思って行きました。国際線の飛行機に乗ったのはそれが初めてのことでした。

――大学卒業を前に、喫茶店の夢はどうなりましたか。

上京した当時はドトールコーヒーのようなチェーン店が出店したばかりの頃で、ブレンドコーヒーが150円。これが、そのあたりの何倍もする喫茶店のコーヒーより美味しかった。しかも、1杯のコーヒーで2時間も3時間も本を読んだりして過ごすわけです。まだスマホはなくて本ですよね。それを学生時代に目の当たりにして、果たして喫茶店を始めて生活していけるのかと考え込みました。

その頃、飲み屋さんをやっていたおじが、バーテンダーとか、バーテンダー協会とか、そんな言葉を口にしていたのをふと思い出しました。そうだ、と。当時、喫茶店というのはお酒を扱わない純喫茶が多かったけれど、コーヒーだけでなくお酒を出せば売り上げの手助けになるんじゃないかと思いつきました。ならばお酒のことをもっと勉強しなければならないなと。

「BAR HIGH FIVE」オーナーバーテンダー上野秀嗣さん

ただ、私はお酒が飲めないし、バーにも行ったことがなかったので、どうしたらいいのか分からなくて。当時の電話番号案内104⋆¹に聞いて、日本バーテンダー協会(以下、N.B.A.)に電話をしたんです。そこでバーテンダースクールのことを教えてもらい、大学卒業後、昼間1カ月コースに通いました。そのスクールは今はもうないのですが、当時、東京・渋谷にN.B.A.の幹部クラスの方が開いたもので、これからバーテンダーになりたい人や現場に入る前に基礎知識を学びたい人を対象にしたものでした。

⋆¹ 電話番号案内104:オペレーターに調べたい名称(氏名、企業名など)や住所を伝えて電話番号を教えてもらうサービス。2026年3月末サービス終了。


全国大会への挑戦、頼ったのは先輩バーテンダー

お酒の知識などの講義の前に、シェイクとかステアとかの実習時間があって、講義が終わった後に、みんなでカクテルを2種類作るというのが主な内容でした。課程修了後、スクールで斡旋してもらったお店に就職しました。23、24歳の頃です。実は留学中に出会ったアメリカ人の女性と学生結婚していたので、早くおカネを稼ぐ必要もありました。

就職した銀座のお店は、お客様のウイスキーのボトルをキープして水割りなどを出すお店でした。チーフと呼ばれていた人が私の入店間もなく急に辞めてしまい、カウンターは私1人きり。ママさんと妹さん、若い女の子がいて接客をして、私は端っこでジッとしていて、タイミングを見て灰皿とか出したり、氷を持って行ったり。

初めてお客様に出したカクテルは、ロックグラスとマドラーで作り、ロックスタイルで出したオリーブなしのマティーニでした。今でも忘れられません。ママさんが「この子はバーテンダースクール出身だから何でもできるわよ」と話したことで、お客様から注文を受けたのですが、お店にはカクテルの道具が何ひとつそろっておらず。内心ちょっと待ってくれと思いながらも、できないと言える雰囲気でもありませんでした。その日の営業後、ママさんに「とりあえずミキシンググラスとバースプーンが必要です」と言って買ってもらいました。

「BAR HIGH FIVE」オーナーバーテンダー上野秀嗣さん

結局、そこで約10年働き、その間、バー業界で働く人と会いたくて、N.B.A.銀座支部(当時)に入れてもらい、支部の催しに参加させてもらうようになりました。

その当時、メーカー主催の大会が盛んに開催されていました。なんとなく応募した初めての大会で予選通過し、いきなり全国大会に出ることに。でも何をどう準備したらいいか全然分からない。途方に暮れて、N.B.A.銀座支部の先輩バーテンダーに教えを乞いました。たまたま、支部のお花見の日に同席した、当時、「イケイケ」のコンクール選手だった岸久さんに本番に向けた所作などを見ていただくことになりました。

――そこが岸さんとの出会いだったんですね。

そうですね。その後、2000年に岸さんが独立して、「STAR BAR GINZA(以下、STAR BAR)」を立ち上げる際にスタッフに誘っていただきました。長い付き合いです。周りの人はみんな私のことを岸さんのお弟子さんと呼びますが、岸さんは師匠というよりもブラザー的な感じで接してもらっています。私が分をわきまえていれば、そういう付き合いができるタイプの人です。


「STAR BAR」を独立して「BAR HIGH FIVE」を開いたわけ

――上野さんは長らくN.B.A.の国際局で理事として働かれましたね。

「STAR BAR」に入った2000年頃から、バー業界では、バーテンダーが酒造メーカーからブランドアンバサダーを任命されることが普及してきました。同時期に世界中から多くのライターやエディター、酒造メーカーの人の来日が増えていきました。そうした人たちを私が対応する。メールで質問に答え、来たらお店や観光スポットなどを紹介してあげるなどを繰り返していると、その人が帰国したらクチコミで私の名前が広がっていきました。

英語ができることはN.B.A.の方には知られていましたが、1996年に日本で開催されたICC世界大会⋆²に向けて銀座支部に新設された国際部で役員として働くことになり、のちに当時の関東東海本部国際部、協会国際局に呼ばれてお手伝いするようになりました。そこはIBA(International Bartenders Association/国際バーテンダー協会)の窓口でもあり、年次総会に出席し、コンペティションの世界大会出場の選手などを引率するのが主な仕事で、海外出張が大幅に増えていきました。

⋆²: ICC世界大会: IBAが主催する世界最高峰のカクテルコンペティション「International Cocktail Competition」。1996年に東京・新高輪プリンスホテルを会場として開催された。この大会で岸久さんがロングドリンク部門で優勝した。

「BAR HIGH FIVE」にて上野秀嗣さん

しかし、私は「STAR BAR」の勤め人ですから、お休みをいただいての海外出張です。そこで、岸さんと相談して、この際、まる1年間、海外からの仕事を全部引き受けてみて、今後行くべきものと行かなくていいものを峻別しようということになりました。ところが、結果としては、行かなくていいものは1つもなかったんです。日曜日と祝日が休みでしたが、その他に延べ約1カ月間店を空けていました。勤め人としてそれはないなと思いました。

私は、バーテンダーとしての岸久がどういう人生を歩んでいくかを見ながら、傍らで支えている自分のことが好きでした。自分でバーを開きたいなんて1ミリも思っていなかった。でも、連れがいて、子どももできて、私の一生を岸さんに面倒を見てもらうのもこれまた悪いと思ったりして。じゃあ、私が「STAR BAR」を離れて自分でやるしかない、といったことを話し合って、2008年に独立して「BAR HIGH FIVE」をオープンしました。


このカクテル、お口に合いますか

――それが独立の理由だったんですね。ちなみに、岸さんからはどんなことを学ばれたのですか。

ひとことで言えば、何から何まで。ものの考え方からバーテンディングまでの全てです。その中でも特に、私の人生を決めたことがあります。それは、「カクテル作りには終わりがない」と気づいたということです。「STAR BAR」で働いていた時、お客様にカクテルをお出ししてから、「お口に合いますか」と必ず聞くようにしてきました。自分がいいと思ったバランスで、自分が信じる技術を使ってカクテルを提供しますが、酒というのは嗜好品なので、自分とお客様の好みは必ずしも合致しません。そこで、お客様には必ずお口に合うか聞こう、というのが「STAR BAR」での約束だったんです。

10年前にお口に合いますかと聞いていて、今も聞く。間違いなく10年後も聞くよな。ということは、未来永劫ずっと聞くということだなと思ったら、もう終わりというものがないじゃないですか。自分の作ったこれが最高、これは誰にでも合う、みたいなものができる世界じゃないということを「STAR BAR」で認識しました。

「BAR HIGH FIVE」のコースター

もともと喫茶店のオヤジになるのが夢で、酒を喫茶店で出すことを思いついてバーで働いてきたわけです。バーの仕事が完璧となれば、私はバーを辞めて喫茶店を始めたはずです。でも、カクテル作りには終わりがない。終わりがないというのは辞められないということ。このとき喫茶店の夢はあきらめたんです。バーテンダーを生業として生きていこうと決めました。

そこからはずっと「STAR BAR」でした。「BAR HIGH FIVE」のコースター、このグリーンの線のデザインが何か分かりますか。「SBG」、つまり「STAR BAR GINZA」と書いてあるんです。私のバックグラウンドは常にここにあるというのを入れたかった。


売り上げよりも大事な、守らなくてはいけないもの

――上野さんのカクテルを作る動画はネット上で拝見できて、とても人気が高いです。とりわけその所作の美しさには定評があります。

せっかくバーに行くのであれば、バーテンダーのアクションを見てもらいたい。バー好きのお客様ってすごく手元を見てるんです。意識して、それなりに丁寧にやっていると、「上野さん、手元が美しいですね」とか言われたりする。ああ危なかった、やっぱり見られていたか、と。私たちはボトル1本持つにも、グラス1つ持つにも、美しく持つ。お客様の視線は手元に集中している。そういうことは店のスタッフに教えます。モヒートばかり30杯も40杯も次から次へ出るような海外のお店で、それが通用するかどうかは分かりませんけど、私らは1杯がより大事です。

日本のバーには売り上げよりも大事な、守らなくてはいけないものがあると思います。例えば、酔えば酔うほど、最後の1杯、もう1杯と飲みたがる人がいます。言われるがままその日の1杯の売り上げのためにと思ってバーテンダーが出すと、最後はべろべろに酔っぱらってしまうことになる。多分その人は無事に家にたどり着いたとしても、翌日起きたら気持ち悪いみたいな感じになっちゃう。もうその日はお店には来られないかもしれないわけです。

もう1杯を出さずに、「今日は十分だから帰りなさい」と帰ってもらう。寝て起きて、「よかった、あそこでもう1杯飲んでたら大変だった」と思えたら、翌日また来られて、昨日は止めてくれてありがとうと3杯飲んでくれるかもしれない。1杯を出さない勇気は絶対持っていなくちゃいけないんです。無理に1杯出さずにお帰りいただいたことで翌日の3杯になるかもしれない。お互いにとっていいじゃないですか。あの店では度を超えて飲ませてもらえない。でも楽しいうちに帰れる、みたいな環境作りが大切だと思います。

「BAR HIGH FIVE」オーナーバーテンダー上野秀嗣さん

――「iichiko彩天」のようなアルコール度数の高い本格焼酎についてどういうご感想をお持ちですか。

こういう焼酎ができたことは日本人のバーテンダーとしてもありがたいです。焼酎を使いたくても度数25度とかだと酒勢が弱く、キックが鈍ります。「ジン マティーニ」とか「ウオッカ マティーニ」のように、「焼酎 マティーニ」がバーの当たり前になるためには、絶対に「iichiko彩天」のような存在がなくてはいけない。

ただ、これから焼酎をグローバルスタンダードのベーススピリッツにしていくためには、1種類だけでは絶対にだめです。バーにはジンやウオッカ、テキーラ、ウイスキーはそれぞれ何十種類も置いてあるじゃないですか。

また、近年ジャパニーズウイスキー業界でも始められたように、「焼酎って何?」と問われたら、これですという明快な定義を業界全体で決めることも重要です。原料は麦、米、芋といろいろとあるけれど、焼酎とは麹を使って発酵させたスピリッツであるというような、そのカギとなる定義を決めること。ジンは明快です。ジュニパーベリーさえ入っていればジンと言えるのですから。

製造の秘密は各々あっていいと思いますが、焼酎の定義がはっきりしたら、もしかしたらアメリカ産の焼酎、オーストラリア産の焼酎も出てくるかもしれない。それでいいと思います。それでも、先駆者として、三和酒類の焼酎はその第一人者として絶対に残りますよ。

「BAR HIGH FIVE」にて上野秀嗣さん
上野秀嗣(うえの ひでつぐ)
「BAR HIGH FIVE(バー ハイ ファイブ)」オーナーバーテンダー/一般社団法人 日本バーテンダー協会(N.B.A.)会長/一般財団法人 カクテル文化振興会評議員 1968年生まれ、北海道札幌市出身。小・中・高校で野球部、大学でアメリカンフットボール部に所属し、アメリカに半年間留学。大学卒業後、日本バーテンダースクールで学んだ後、東京・銀座で働き始める。2000年の銀座「STAR BAR GINZA」開業時から勤務し、岸久氏の下で研鑽を積む。2008年に独立して銀座に「BAR HIGH FIVE」を開店。同店は「The World’s 50 Best Bars」で2013年世界3位、2019年18位、2020年には一貫して高いパフォーマンスを発揮してきたバーを表彰する特別賞「Heering Legend of the List」を受賞。

個人表彰では、「Tales of the Cocktail® Spirited Awards®」で、2016年「International Bartender of the Year」、2024年「Helen David Lifetime Achievement Award」を受賞。一般社団法人日本バーテンダー協会(N.B.A.)で史上最年少理事として2011年度まで国際局を担当。2024年同協会会長に就任。その技能と長年にわたる業界での活動により、2021年11月「令和3年度 卓越した技能者(現代の名工)」の厚生労働大臣表彰を受ける。2023年「令和5年 秋の褒章」にて黄綬褒章受章。書籍「カクテル パーフェクト・ガイド」(デイル デグロフ著、楽工社)の日本語版監修を担当。